雑記帳
楪城に登城しました

2017年1月17日

 楪(ゆずりは)城(杠城・譲葉城)は、別名を新見城といい、現在の岡山県新見市上市にその城跡があります。

二の丸跡

 はっきりとした文献はないものの、楪城は、鎌倉末期頃に新見氏によって築城されたと考えられているそうです。

 その新見氏は永禄年間に三村氏に攻められて敗走し、かわって三村元範(元親の弟)が城主となり、城の拡張・整備を進めるとともに支城の整備も行ったようです。

 しかし、天正2年(1574)冬から翌3年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中諸城において激戦(備中兵乱)が展開され、楪城も天正3年正月に攻められ落城したといわれます。

 
A:本丸跡
B:二の丸跡
C:三の丸跡
D:二の丸三の丸分岐
E:登山道への分岐
F:搦め手側登山道入口
G:登山道への分岐
H:大手側登山道入口

 搦め手側から登城

~ 登山道入口 ~ 本丸跡

分岐(上の地図のE地点)
分岐(上の地図のE地点)
分岐地点にあった道標
分岐地点にあった道標
登山道入口(上の地図のF地点)
登山道入口(上の地図のF地点)
 

 国道180号から分岐した道を道標に従って進み、最後に右に分岐して川を渡ったところに空き地があったので、そこに駐車しました。(登山道入口近くにも駐車できそうなスペースがありました)
そして、登山道入口からコンクリートで整備されている登山道を登りました。

<登山道入口に設置してあった案内板より>
現地案内板にあった地図

 楪 城 跡

 楪城は、鎌倉末期(正応元年~永仁元年)頃に新見氏によって築城されたものと思われる。 その後、戦国時代に最後の城主新見蔵人貞経は、三村氏の侵入によって滅ぼされ行方不明となる。

 代わって、永禄十年(1567)に三村元範が楪城主となり入城する。しかし天正三年(1575)の備中兵乱で毛利方の小早川隆景を総大将として総軍二万騎が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城する。元範は十騎ばかりで落ち延びたが、高尾の石指で、塩山城主の多治部雅楽頭景春が五十騎ばかりで追いかけて来、戦いの末討たれる。

 そして楪城は毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家来今田上野介経高が在番となる。その後、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となる。

 楪城は、代表的な連郭式の山城で、山陽と山陰の交通の要衝にあり、南北に長く、高梁川と矢谷川に囲まれた天険の要害である。備中では松山城につぐ規模をもち、別名新見城ともいう。

 本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸は標高490mの所にあり、二の丸の南と三の丸の北に大きな堀切がある。なお、三の丸の頂上付近には井戸も残っている。

 本丸は新見氏時代のもので、のち三村氏により二の丸・三の丸が増築されたものと思われる。この山城には名木の楪の木が生えていたので、その名がつけられたという。

 
登山道
登山道
本丸まで230mの地点
本丸まで230mの地点
一の壇・二の壇・三の壇
一の壇・二の壇・三の壇
 

 コンクリートの登山道をしばらく登って行くと、道はやがて土の路面にかわり、「この辺りからが当時の登城道なのかな?」とか思いました。そこから少し登ったところが本丸跡でした。

本丸跡

本丸跡

 三の壇(主郭)は、山城としてはとても広く、大規模山城の威風を感じました。

 新見氏の時代には、後に三村氏によって築かれる二の丸や三の丸は無かったはずですが、この本丸のところだけでも山城として十分な規模があるように思われました。

 そして、「新見氏の時代には、今日登って来た道が大手道だったかも知れない。」とか、あれこれ想像しました。

 
一の壇
一の壇
二の壇
二の壇
三の壇(主郭)南側の坂
三の壇(主郭)南側の坂
三の壇(主郭)
三の壇(主郭)
四の壇
四の壇
本丸の説明
本丸の説明
 

 備中兵乱記に「・・坂の途中で戦い、敵、味方とも数多く討たれた。」と記述がある"坂"とは、三の壇(主郭)南側の坂のことだろうと思いました。

花(端)の丸跡

三の壇から見た花の丸
三の壇から見た花の丸
花(端)の丸の説明
花(端)の丸の説明
花(端)の丸跡
花(端)の丸跡
 

 「備中兵乱記」 によれば、元範は「たとえ松山城は落とされても、楪城は堅固な城なので大丈夫だろう」と思っていたようです。

 しかし、頼みに思っていた冨家大炊助・曽祢内蔵・八田主馬らの譜代の郎党が敵方に寝返り、敵兵を諸丸に引き入れて端の丸に火をかけ、敵兵とともに本丸に攻め込んで来たのだそうです。
 そして、防戦むなしく楪城は落城し、元範は得意の長刀で奮戦した末に討死したようです。

 大手側から登城

 別の日に、大手側から登城しました。

~ 登山道入口 ~ 二の丸三の丸分岐点

分岐(上の地図のG地点)
分岐(上の地図のG地点)
分岐地点にあった道標
分岐地点にあった道標
登山道入口(上の地図のH地点)
登山道入口(上の地図のH地点)
 

 登山道入口には、普通車2台程度が駐車できそうなスペースがあり、城跡の案内板が設置されていました。そこからコンクリートの登山道を歩いて登りました。

登山道入口にありました
登山道入口にありました
登山道
登山道
道標(上の地図のD地点)
道標(上の地図のD地点)
 

 コンクリートの登山道は、二の丸三の丸分岐点(上の地図のD地点)のところまで整備されていました。

三の丸跡

三の丸跡

 三の丸跡は、二の丸三の丸分岐点(上の地図のD地点)からは近く、難なく行くことができました。

 三の丸は、本丸や二の丸がある山塊とはやや離れていて、井戸も備えているなど、独立した出城のような役割があったのだろうと思いました。

 規模も結構大きく、多くの兵を待機させられそうでした。

 
三の丸北側の堀切
三の丸北側の堀切
一の壇
一の壇
井戸の跡
井戸の跡
 

堀切は、「敵の侵入を防ぐために郭(丸)の麓に切った空堀で、楪城の場合は大変規模が大きい。」と説明してありました。

三の丸の説明
三の丸の説明
四の壇付近から撮影
四の壇付近から撮影
六の壇付近から撮影
六の壇付近から撮影
 

遊歩道

遊歩道
遊歩道

 山上の遊歩道は、枯れ葉が降り積もって滑りやすい場所もありましたが、全体的には「よく整備されている」感じでした。

 当時の登城道・連絡道と重なっている部分も多いだろうと想像しながら歩きました。

 

二の丸跡

二の丸跡

 三の丸跡から二の丸三の丸分岐点に引き返し、そこから二の丸方面に遊歩道をしばらく登って行くと堀切があり、さらに登って行くと城跡らしい削平地に着きました。そこが二の丸の五の壇でした。

 二の丸跡は、樹木が適度に伐採されていて見晴らしが確保されていました。当時も樹木は無かったはずなので、見晴らしがよく、敵の動きを監視するには絶好の場所だったでしょう。

 
二の丸南側の堀切
二の丸南側の堀切
五の壇から四の壇方向を撮影
五の壇から四の壇方向を撮影
二の丸上部
二の丸の上部
二の丸の説明
二の丸の説明
高梁川と国道180号が見えました(北東方向)
高梁川と国道180号が見えました
切株がいい味を出しています
切株がいい味を出しています
 

帯曲輪

二の丸から見た帯曲輪
二の丸から見た帯曲輪
本丸側から見た帯曲輪
本丸側から見た帯曲輪

 二の丸と本丸の間に細長い帯曲輪があり、現地の説明板に
「二つの郭を連絡するために、その間に細長く設けられた郭で、楪城では本丸と二の丸を幅約11m、長さ約80mの郭で結んでいる。 また、中ほどには栖櫓の基壇も見られる。二の丸からの連絡がすぐでき易く、このような大規模なものは例がない。」
と書いてありました。

 

 ここでは便宜上、本丸~三の丸間の行程を 搦め手側から登城大手側から登城 に分割して表示していますが、実際には両日とも本丸~三の丸間をすべて歩きました。

 二の丸~三の丸間は、高低差も距離もそれなりにあるので、「搦め手側から登城して本丸~二の丸の辺りだけ歩く」というのもいいかも知れないと思いました。