雑記帳
名を高松の苔に残して(1)

2019年2月24日

 備中高松城は、天正10年(1582年)羽柴秀吉水攻めされた城として知られ、当時 毛利氏配下の清水宗治が守っていました。
 このほど、その城址に立って、戦いの軌跡と秀吉 宗治 隆景それぞれの決断に思いを巡らしました。  

備中高松城の戦い

 戦いのあった当時は、「天下布武」を目指す織田信長から中国地方の担当武将に任じられた羽柴秀吉によって、毛利氏がその支配地を次々と失いつつある状況で、境目七城(備前と備中の国境に位置し毛利軍の重要な防衛ラインとなっていた七つの城で、主城が備中高松城)も支えきるのは困難といった状態でした。
備中高松城本丸跡
備中高松城本丸跡

 けれども、備中高松城は、低湿地に位置する典型的な「沼城」で、周囲の沼は泥土が深く一度入ると身体が沈んで容易に動くことができず、秀吉軍の兵や馬はなかなか攻め入ることができなかったようです。

 また、城主の清水宗治は忠義に厚い武将で、降伏を勧める秀吉に対して死を覚悟の上で頑として応じなかったといいます。

 とはいうものの、境目七城も次々と秀吉軍に落とされ、主城の備中高松城も黒田官兵衛の献策といわれる水攻め(5月19日築堤完成)によって孤立し、次第に絶望的な状況になっていきました。

 
布陣図(資料館で貰ったリーフレットから抜粋)
布陣図(資料館で貰ったリーフレットから抜粋)

 駆け付けた毛利の援軍(毛利輝元小早川隆景吉川元春らが率いる軍勢)も、備中高松城が堤防内にできた湖に浮かぶ浮城のようになっている状況に為す術もなかったようです。

 そして、毛利方は宗治に対して「救援が不可能なので秀吉に降伏するよう」に伝えましたが、宗治は「自分の命を城とともにしたい」と降伏を受け入れなかったといいます。

 彼我の戦況は明らかに毛利方が圧倒的に不利な状況で、毛利方は支配地の割譲と城兵の助命を条件に和議を申し込みました。

 しかし、お互いの条件が折り合わず、和議はなかなか調わない模様でした。一番の対立点は城主清水宗治の扱いで、秀吉は切腹を要求し、毛利方は「当家へ忠義を守っている宗治を切腹させることは思いも寄らぬ」と秀吉の要求を拒否して、膠着状態が続いたようです。

 
高松城水攻之図(本丸跡の案内板のもの)
高松城水攻之図(本丸跡の案内板のもの)

 そんな中の6月3日晩、秀吉から新たな和睦の案が提示されました。清水宗治の切腹は条件とするものの、国分けについては「伯州は矢走川を境に、備中国は高橋川を限って中国一円を毛利家が支配されるがよい」と譲歩することで和睦しようというものでした。

 これは、秀吉が本能寺の変(信長が明智光秀の謀反によって6月2日早暁に討たれた)を知り、一刻も早く明智光秀を討つべく上洛するために(毛利方に信長落命の事実を知られる前に)毛利方と急いで和睦する必要が生じて和睦の条件を緩めたものでした。

 
二の丸跡と本丸跡を結ぶ小橋
二の丸跡と本丸跡を結ぶ小橋

 秀吉は、信長の死を徹底的に秘し、毛利の軍僧安国寺恵瓊(外交担当者)を秀吉陣に招いて上記の和睦案を提示したといいます。

 しかしその和睦案も、輝元らは「国分けのことはどうなってもよいが、宗治を切腹させることはできない」と拒否するので、恵瓊は「秀吉が和睦の条件に宗治の切腹を求めている」ことや「毛利方が苦しい戦況の中、宗治の切腹を拒否している」ことなどを宗治に伝えたのでした。

 
清水宗治自刃の地?
清水宗治自刃の地?

城址公園の南駐車場から少し東に歩いたところに宗治の自刃の地とされる場所がありました。
しかし、自刃の地が蛙ケ鼻から相当離れた(ほぼ城内のような)場所とは不可解です。切腹するとき宗治らが小舟に乗って行った場所は、当時 宗治とともに籠城していた中島大炊助(妻は清水宗治の娘)が著した中國兵亂記に「・・・宗治が乗たる船蛙が鼻へ漕着る」と記されているので、蛙ケ鼻の近くだろうと想像されるからです。

 それを聞いた宗治は「仁の心を持つ主君に義をもって報じるのは臣下のとるべき道である。宗治が急いで腹を切りたい」と和議が調うよう自刃する約束をして恵瓊を送り出し、毛利本陣に「一死をもって主家及び城中の者の生命に代わりたい」旨の書状を届け、秀吉にも「籠城の者たちをお助け下さるなら、喜んで切腹したい」旨を伝えたそうです。

 こうして6月4日巳刻(午前10時頃)清水宗治は、月清入道(宗治の兄)・末近信賀(毛利の軍監)・難波田兵衛(宗治の弟)と共に小舟に乗り込み、秀吉から贈られた酒肴で最後の盃を交し、「誓願寺」の曲舞を悠然と謡って(月清らもこれに唱和した)舞い、辞世の句を朗詠して心静かに切腹したと伝わります。(他の者も思い思いに切腹し、首は桶に納められて秀吉から検使として遣わされた堀尾茂助に渡されたといいます)

 清水宗治の切腹は、のちの武士の「美学」ともいえる切腹の儀式の始まりといわれ、これ以降、武士にとって切腹は「名誉の死」であるとの認識が広まり、武士道の象徴的作法として次第に確立されていったそうです。

中国大返し

 清水宗治が切腹したことにより講和が成立し、秀吉は、毛利方に「約束は必ず守ります」という3カ条からなる血判起請文を出して撤退の準備を始めたそうです。諸説あるものの、5日は毛利軍の動きを見極めるために陣をそのままに保ち、 6日になってから水攻めの堤防を切り、世に云う中国大返しを開始したとする説が有力だと思われます。

 いずれにしても、毛利方が信長の死を知ったのは秀吉が中国大返しを開始した翌日あたりのようで、吉川元春は信長の死を隠して講和を結んだ秀吉に激怒して秀吉追撃を主張したといいます。

 しかし、この頃すでに毛利方には村上水軍など調略に応じて織田方になびく者がいたり、今後の動きを予測し難い宇喜多氏の存在が不気味だし、さらに豊後の大友宗麟に背後を脅かされる不安もあるなど、とても秀吉を追撃できるような状況ではなかったようで、小早川隆景は「実力ある秀吉を追撃するという危険な賭けをするよりも、和睦の約束を守り秀吉に恩を売っておくのが得策」と判断して元春を説得し、輝元もそれを支持したと考えられています。

smile 本能寺の変を知ったとき、黒田官兵衛が「かくなるうえは、速やかに上洛して光秀を討つべし」と秀吉に進言したとする説があり、秀吉の天下取りへの途は黒田官兵衛によって拓かれたと言えるかも知れません。


参考資料 : 吉備群書集成.第參輯 中國兵亂記,同.第四輯 清水宗治事蹟,高松城址公園資料館の資料,その他