雑記帳
名を高松の苔に残して(2)

2019年3月2日

 備中高松城は、織田信長の命を受けて中国攻めを進めていた羽柴秀吉が黒田官兵衛の献策といわれる水攻めによって攻略した城として知られています。
 このほど、その城址や関連史跡を訪ね、戦いのあった当時に思いを馳せました。


備中高松城跡(資料館で貰ったリーフレットから抜粋)
備中高松城跡(資料館で貰ったリーフレットから抜粋)

 備中高松城は、現在の岡山市北区高松にその城址があります。現在、その一部が高松城址公園として整備され、他の大部分は住宅地や農地・道路などになっています。

 城址へは、国道180号線の「備中高松西」の交差点を北に入るか、「最上稲荷入口」の交差点を北に入るかして、道標に従って進めばよさそうでした。

 

舟橋

舟橋
舟橋

 国道180号線の「備中高松西」の交差点を北に入って進むと、高松城址公園の駐車場(南側)の少し手前に舟橋という史跡がありました。

 そこは、当時 掘に囲まれていた高松城の南手口にあたる場所で、舟を並べてその上に板を渡した程度の舟橋をかけ、城から出撃する際はその橋を使い、退却した後は攻められないよう橋を撤去できる仕組みにしていたそうです。

高松城址公園

 上の備中高松城跡の図で、南側の三の丸跡にある駐車場に車を置いて、本丸跡の方へゆるゆると歩いていきました。

城址公園の駐車場付近にて
城址公園の駐車場付近にて
城址公園資料館付近にて
城址公園資料館付近にて
城址公園資料館の内部
城址公園資料館の内部
 

 駐車場から公園内の道を北西に少し歩いたところに蔵のような外観の高松城址公園資料館があり、水攻め関係の資料を無料で見ることができました。(10時~15時開館で月曜休館)

水攻め陣立ての模型(展示物)
水攻め陣立ての模型(展示物)
二の丸跡付近にて
二の丸跡付近にて
二の丸跡
二の丸跡
 
清水宗治首塚(本丸跡)
清水宗治首塚(本丸跡)
清水宗治辞世の句碑(本丸跡)
清水宗治辞世の句碑(本丸跡)
 

 石井山に築かれていた清水宗治の首塚は、明治42年に備中高松城本丸跡へ移築されました。その首塚の傍に、宗治の辞世という 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して の句碑がありました。中國兵亂記ではこの句を月清入道の辞世としていますが、何れにしても、散り際を心得た潔い死生観が美しく響いてくる素晴らしい句だと感じました。

清水宗治胴塚

清水宗治胴塚
清水宗治胴塚

 北側の駐車場から少し北へ進むと、住宅街の中に胴塚がありました。そして、傍に設置されている案内板に次のように書いてありました。

史蹟胴塚の由来
 時に天正10年(1582年)6月4日、自決した高松城主、清水長左衛門宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまゝ本丸に帰って来た。
 迎える家臣、身内の者共、押さえ切れぬ涙に感極まって、一同の嗚咽がおこった。 やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。 その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は己が刀で己が首を切り、そのまゝ落ちこんで自刃し亡き公の後を追った。
 この主にしてこの臣あり 主を思う眞情躍如たるものがある。 昭和49年9月 
高松城址保興会

蛙ケ鼻

水攻堤防跡(東端の残存部分)
水攻堤防跡(東端の残存部分)

 秀吉は、黒田官兵衛の策によって高松城を水攻めすることを決断し、長さ3kmにわたって、高さ7m、上部の幅11m、底部の幅22mの堤防を築いたそうです。その東端の場所が蛙ケ鼻で、現在も堤防の跡が僅かながら残っています。

 堤防は、「土俵一俵運んでくれば銭百文と米一升を与える」という破格の好条件に俄か人夫が殺到して、昼夜兼行の突貫工事により僅か12日間で完成したといわれます。築堤工事には銭63万5040貫文・米6万3504石の経費を要したそうです。

 
堤防の上部
堤防の上部

蛙ヶ鼻は、石井山の南に位置し、堤防の唯一残った史跡。ここから西に堤防が造られたようです。

築堤の基底部(発掘調査)
築堤の基底部(発掘調査)

発掘調査の結果を踏まえて、堤防の基底部を再現して見られるようにしてありました。

高松城水攻め史跡公園
高松城水攻め史跡公園

現在この場所は史跡公園となっていて、駐車場(3台程度)やトイレも設置されています。

水攻め図:羽柴勢・毛利勢の配置と水没区域(現地の解説版から抜粋したもの)
水攻め図:羽柴勢・毛利勢の配置と水没区域(現地の解説版から抜粋したもの)

秀吉本陣跡(石井山)

秀吉本陣跡(白い幟があるところ)
秀吉本陣跡(白い幟があるところ)
秀吉本陣跡にて
秀吉本陣跡にて
 

 高松に到着した秀吉は、龍王山(現在の最上稲荷のある山)に着陣し、その後、高松城が一望できる石井山中腹の持寶院に陣を移しました。

秀吉本陣跡から備中高松城方向を望む
秀吉本陣跡から備中高松城方向を望む

 現在、持寶院は山の麓へと移転しており、裏手の登山道から本陣跡に登ることができました。(蛙ケ鼻の駐車場から歩いて行きました)

 本陣跡に立って、「秀吉もこの場所からこんな風に見ていたんだろうな」と思いながら、高松城跡の方を見ました。
 (右の写真は倍率ほぼ1倍で撮ったもので、黄線で囲んだところが「清水宗治公自刃之阯」の碑がある場所、青線で囲んだところが本丸跡)

 

清水宗治首塚跡(石井山)

清水宗治首塚跡は秀吉本陣跡の傍にありました
清水宗治首塚跡は秀吉本陣跡の傍にありました

 中国兵乱記(加原耕作氏の現代語訳)には
  ・・・秀吉卿は羽柴山(秀吉本陣)で宗治の首を実検され、 「名誉ある勇士である。武士たる者はこのようで有りたいものである。・・・

清水宗治首塚跡の碑
清水宗治首塚跡の碑

・・・古今の武士の鑑である」 と大変誉め称えられ、持宝院の山内に一堆を築き、石塔を建て置かれ、近侍・武将に回向を仰せ付けられた。以来、宗治の忠義の誉れは不朽のものとなった。秀吉卿の情けを感じ、一族の者は嬉し涙を流した。・・・
とあり、宗治の首は秀吉が本陣を置いた石井山持寶院のこの場所に葬られたことがわかります。

 

太閤岩(石井山)

秀吉本陣跡のところにあった道標
秀吉本陣跡のところにあった道標

秀吉本陣のところから500mほど歩いて太閤岩へ行きました。

太閤岩への道
太閤岩への道

秀吉本陣から太閤岩へ続く道は、歩きやすい道でした。

太閤岩
太閤岩

「当時、この場所に見張りを置いていたのかも」と思いました。

 

足守川水取口跡

足守川水取口跡
足守川水取口跡

 この場所は、高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰き止め、梅雨で増水した足守川の水を堤防内に引き入れた場所と伝わっているそうです。

 現地(現在のJR足守駅近くの場所)には高松城水攻め水取入れ口遺跡と書いた標柱がありましたが、遺構などは確認できませんでした。

 

参考資料 : 中国兵乱記(加原耕作氏の現代語訳),高松城址公園資料館の資料,現地の案内板,その他