雑記帳
鳥取城の戦いと吉川経家

2020年7月6日

 鳥取城では、1581年(天正9年)羽柴秀吉兵糧攻め(第二次鳥取城攻め)によって籠城していた人々が飢餓状態に陥り、果ては人肉まで奪い合って食べるという凄まじい飢餓地獄になりました。この兵糧攻めは、鳥取の渇え殺し といわれています。

 鳥取城は、戦国時代中頃に、現在の鳥取県鳥取市の久松山の山頂を中心に山城として築かれたことに始まるといいます。
 上記の兵糧攻めの時代には久松山の山頂が城郭の中心で、城も石垣ではなく土塁が築かれた「土の城」だったそうです。(久松山の麓に現在見られる石垣は、兵糧攻め後に鳥取城に入った宮部継潤が整備を始め、江戸時代になって池田家が因幡に封ぜられて以降に拡張されたもの)
現地の案内板から抜粋
上の画像は現地の案内板から抜粋したものですが、今回は、鳥取城「山上ノ丸跡」や秀吉の陣跡「太閤ヶ平」など(上の画像で黄線で囲ったところ)この兵糧攻めに関する場所を巡りました。
 戦国時代の末、鳥取城は中国地方を巡る毛利家と織田家の勢力争いにおける境目の重要な城で、二度にわたって秀吉の攻撃を受けました。

秀吉の第一次鳥取城攻め

 1580年(天正8年)6月、織田信長から中国攻めに派遣された羽柴秀吉が因幡国守護職である山名豊国が守る鳥取城を攻めました。

山上ノ丸跡(遠望)
山上ノ丸跡(遠望)
山上ノ丸跡
山上ノ丸跡
 

 3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、重臣の森下道誉中村春続ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、城主の山名豊国は降伏して織田家に臣従することを決め、秀吉は兵を退きました。

 しかし、毛利勢(吉川元春)が因幡に勢力を盛り返してくると、森下道誉・中村春続ら家臣団は毛利家への従属を主張して豊国を追放(このあたりについては諸説あり)し、吉川元春に新たな鳥取城主の派遣を要請しました。

吉川経家の入城

吉川経家公の像と久松山
吉川経家公の像と久松山

 そして、城主が数人入れ替わったあと、1581年(天正9年)3月、石見吉川家の吉川経家が部下400余人を率いて鳥取城に入城しました。(経家は、あらかじめ元服前の嫡男に家督を譲り、自らの首桶を持参して鳥取城に入ったといいます)

 入城した経家は、さっそく秀吉軍の攻撃に備えて、必要な兵糧の予測や出城の造営など防衛ラインの整備を行いました。

・・・吉川経家が立て籠もる鳥取の城は、四方とも人里から離れた険しい山城である。因幡の国は、北から西へかけて海が漫々と広がっている。鳥取の城と西方海岸との真ん中に、城から25町ほど隔てて、町際をかすめて東南から西へ大河が流れている。この川は橋がなく、舟渡しである。城から20町ほど隔てて、この川際に中継の出城がある。また、河口にも中継の出城がある。安芸から軍勢を迎え入れるために、この2カ所に出城を築いたのであった。・・・
(信長公記 現代語訳)

秀吉の第二次鳥取城攻め

 吉川経家が入城したことを聞いた羽柴秀吉は、同年7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釈山(現在の本陣山)に本陣を構え、帝釈山山頂も含めた14~5の砦を瞬く間に築城し、あれよという間に約20kmに及ぶ大包囲陣を完成させて、徹底した兵糧攻め(献策したのは秀吉の軍師・黒田官兵衛)を開始しました。

太閤ヶ平

太閤ヶ平がある本陣山(中央のアンテナがある山)
太閤ヶ平がある本陣山(中央のアンテナがある山)
太閤ヶ平の土塁と空堀
太閤ヶ平の土塁と空堀
 

 太閤ヶ平は、秀吉が鳥取城の兵糧攻めに際して構築した陣城群の本陣で、一辺約50mもの規模を持つ内郭を巨大な土塁と空堀が囲んでいます。織田信長は、毛利本隊が鳥取城の救援に出陣した場合、自らが鳥取に出陣することを家臣に明言していたといい、太閤ヶ平は信長出陣を前提に築かれたと考えられているそうです。

太閤ヶ平の土塁と空堀
太閤ヶ平の土塁と空堀
太閤ヶ平の内郭
太閤ヶ平の内郭
・・・鳥取の城の東に、7、8町ほど隔てて、同じくらいの高さの山がある。羽柴秀吉はこの山に登り、敵城を展望して本陣を構えた。そうして、ただちに鳥取城を包囲させ、ついで中継の出城2カ所の間を遮断した。本城・出城それぞれに鹿垣を巡らせて包囲し、敵城から5、6町乃至7、8町の距離まで近づけて諸部隊を陣取らせた。堀を掘っては柵を立て、また堀を掘っては塀を立て、土塁を高々と築かせ、切れ目もなく二重または三重の櫓を立てさせた。・・・
(信長公記 現代語訳)

鳥取城では

 吉川経家が入城したとき既に、鳥取城では兵糧米が甚だしく不足している状態になっていました。米の高値に釣られて、兵糧米の多くを鉄砲・弾薬へ交換してしまっていたのです。(秀吉は兵糧攻めの下準備として商人に米を高値で買い占めさせていた)

 吉川経家は、備蓄の兵糧米の少なさに驚いて、急いで兵糧を送って欲しいと元春に訴えました。
しかし、秀吉が厳重な城の包囲に加えて兵糧の搬入路になると目される千代川の河口付近にも砦を構築して徹底的に兵糧の搬入を防いでいたので、毛利方はどうしても兵糧を搬入することができませんでした。

 そして、ただでさえ備蓄米が不足している鳥取城に村々の領民が逃げ込んで来た(城内の食料が早く尽きるよう、秀吉軍が領民を追い立て鳥取城へ逃げ込ませた)ので、城内の食料は僅かな期間に食べ尽くされてしまいました。

鳥取城がある久松山(太閤ヶ平の近くから撮影)
鳥取城がある久松山(太閤ヶ平の近くから撮影)
山上ノ丸跡への道
山上ノ丸跡への道
 

 その後の飢餓地獄は書物に次のように記されています。

・・・木の葉や草を採り、特に稲の切り株は上々の食い物であったようであるが、後にはこれらも採り尽くし、城内で飼っていた牛馬を殺して食い、寒さも加わって、弱い者は際限もなく餓死した。餓鬼のように痩せ衰えた男女が、柵ぎわへまろび寄り、苦しみ喘ぎつつ「引き出して、助けてくれ」と悲しく泣き叫ぶ有様は、哀れで見るに堪えなかった。これらの者を鉄砲で撃ち倒すと、まだ息のある者にも人々が群がり、手に手に持った刃物で手足をばらし、肉を剥がした。五体のなかでも特に頭部は味がよいと見えて、一つの首を数人で奪いあい、取った者は首を抱えて逃げて行った・・・
(信長公記 現代語訳)
・・・日を送り月を越し程に。粮つきて馬牛などを殺し喰しかども。それも程なく尽ぬれば。餓死し人のししむらを切食あへり。其類の近きよりして遠きにはあたへず。子は親を食し。弟は兄を食しなどしける・・・
(豊鑑)
・・・斯て城中兵粮尽果十月中旬に及びては草木の葉も食ひ尽し牛馬を殺して是を喰ひ・・・柵の外へ馳出草木の根を掘り取り後は敵の目の前とも云はず落る果を拾はんと近寄れば情なく寄手は鉄砲にて是を討倒す味方は死骸を引込切分けて是を喰ひ或ひは手負て未だ死果ぬをも是は深傷なり助かるべきに非らず苦痛をさせんより早く死ねかしとて無体に切殺し節々を放して其脳を食ひ中にも佳味は首に有べしとて頭を砕きて争ひ食ふ・・・
(真書太閤記)
山上ノ丸(本丸・二ノ丸)跡の石垣
山上ノ丸(本丸・二ノ丸)跡の石垣
山上ノ丸(本丸入口)跡
山上ノ丸(本丸入口)跡
 

 はじめ経家は、冬まで持ちこたえることができれば秀吉軍は寒さに耐えられず囲みを解いて帰るに違いないと考えていたようです。しかし、頼みの糧道を寸断され、冬まで城中の兵糧が持たなかったのです。

・・・斯くて十月下旬の頃に至り、城中全く糧を絶し、餓死する者も多く、今は上下不残餓死する計りなれば、城の大将吉川式部少輔思ひけるは、芸州より後詰あるべきとの約束も徒になり、今日に至り其儀なし、城外は緊しく囲みぬ、既に糧を絶し若しやの頼みも失果たり、今は必死の身に究まれり・・・
(因幡民談記)

 元春も、鳥取城の惨状をただ傍観していたわけではなく、1581年(天正9年)吉川元長(元春の嫡男)率いる軍勢を鳥取城の救援に向かわせました。しかし、途中の羽衣石城で織田方に与する南条元続の軍勢に阻まれてしまいました。また、元春が海路で向かわせた兵糧船・軍事船も織田方の松井康之率いる水軍によって撃破され、鳥取城救援は成功しませんでした。
 一時は中国地方のみならず讃岐、但馬、播磨、豊前の一部にまで勢力を拡大していた毛利氏でしたが、この頃には次第にその版図を織田氏に奪われつつあり、鳥取城を守り切るのも難しい状態だったと思われます。

山上ノ丸(二ノ丸)跡
山上ノ丸(二ノ丸)跡
山上ノ丸(本丸)跡
山上ノ丸(本丸)跡
 

 ここに至って、経家は、森下道誉・中村春続と相談して降伏することを決め、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を秀吉に要請しました。

 秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめました。しかし経家は「吾不肖なりと雖も仮にも大将の號を受し身、国方の者共にのみ自殺させて、命助かり本国に帰りて何の面目で元春公に対面できようか」とそれを拒否し、自害するとの意志を変えなかったといいます。

 諸説ありますが、結局秀吉は、吉川経家・森下道誉・中村春続の三人を切腹させ、三人以外は妻子たちも含めて籠城の者たちを助命したようです。

・・・秀吉公仰に、式部少輔は所存義理に叶へり、去りながら、式部少輔は 加勢の人なれば その科軽し、森下中村主人を見捨て 自分等のみ降参せず、籠城に及ぶこと、却々其罪軽からず、自余の侍は赦免すべきも、此両人に於ては許すべからず、三人腹を切るに於ては、残る籠城の者は命を助くべし・・・
(因幡民談記)

 そして、秀吉は、降伏し切腹することを決めた経家たちに「最後の酒宴を進めよ」と沢山の酒肴を送ったようです。

・・・秀吉公より送り賜ふ酒肴を拝受し、父母妻子従類郎当籠城頭分の侍とも呼び集め、末期の暇乞の盃を始めけるこそ哀れなれ、何れも諸侍へ一礼し、久々の籠城各々忠義を尽し玉ふと雖も其甲斐なく、如此暇乞に及ふこと是非もなき次第なり、芳志未来迄忘れ置かずなど、詞を尽し盃を差しかわしければ、諸侍も皆涙に咽ひ面を上る者もなし。まして父母妻子従類は、是を別れの涯なれば名残を惜み、後に残りていかで一日もながらふへきとて、伏し倒れ泣叫ぶ・・・
(因幡民談記)

 因幡民談記には、「三人の大将先以城中の諸人の命を助け、殊に妻子眷属許さるること、嘆きの中の悦也とて、憂ひたる振もなく、勇み悦びけり」ともあり、武将たちの思いと潔さが伝わってきます。

山上ノ丸(天守櫓)跡
山上ノ丸(天守櫓)跡
山上ノ丸(天守櫓)跡からの眺め
山上ノ丸(天守櫓)跡からの眺め
 

 また、陰徳太平記には吉川経家の最期の様子が次のように書かれています。

・・・経家は羽織を脱ぎ捨て、一尺五寸の刀を抜いて中巻にすると、にっこりと微笑んで、「日頃から稽古していたことでもこういうときには仕損じるものだが、ましてこれは稽古もせぬこと、見苦しきこともあろうが」と言って、辞世の句を
 武士の取り伝えたる梓弓かえるやもとの栖なるらん
と口ずさみ、その声の下から、刀を左の脇腹に突き立て右に「エイヤッ」と引き回し、また取直して心元に突き立て臍の下まで押し下げた。
刀を持ったままで、両手を突いて首を差し出し、(家臣の静間源兵衛に)「よく打て」と命じた。

静間は刀を振り下ろしたが、さすがに先祖代々仕えてきた主君だからか、 目はくらみ、心も消え果て、太刀をどう打ち下ろしていいのかもわからなくなったのか、少しも切れなかった。経家は弱った様子もなく、「馬鹿者。切らぬか」と声をかけた。 ようやく二の太刀でその首を打ち落とした・・・

 自害後、吉川経家の首は、羽柴秀吉に届けられ、秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わります。 その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られたそうです。

 開城後、秀吉は城の廻りに大釜を多く据え置き、籠城して飢餓状態に陥っていた城兵・領民に粥を煮て食べさせたところ、急に多く食べて死んでしまう者が続出したそうです。


参考資料 : 信長公記、豊鑑、真書太閤記、因幡民談記、陰徳太平記、鳥取市歴史博物館の資料、現地の説明版、その他